毒物の王・砒素

砒素は、昔から「毒物の王」と呼ばれてきました。中国・明代の薬物書『本草 綱目』に「砒の性(さが)の猛(はげ)しさは貔(ひ)のようで、故に名づけた」とでてきます。貔とは、どうもうですばやい動物のことで、その昔、飼いなら して戦争にもちいたといいます。その動物の性質に似ていることから、砒素という名前がつけられた、というのです。

日本では「石見銀山鼠捕り」が 毒薬としてもちいられました。大量に飲まされた人は、激痛、嘔吐、出血などに、のたうち苦しんで死んでいきました。毎日、少量ずつ飲ませると、原因がわか らないまま弱って死んでいくので「密室の殺人」にむいている、ともいわれます。石見銀山鼠捕りの成分は毒性の強い「亜砒酸」でした。

砒素は、地球の深部からマグマにとけてでてきて、 地殻に約2ppm含まれている、といわれています。生命は、砒素と共存する機能をそなえることなしに、地球上で生きていくことはできませんでした。人は、 毒性の強い無機ヒ素をとりこむと、毒性の弱い有機砒素にかえて体外に排泄します。排泄する能力を超えた砒素をとりこむと、砒素は体内にたまって酵素の働き を阻害して、さまざまな症状をひきおこします。砒素中毒は、呼吸器、消化器、泌尿器、循環器、神経など全身に障害をもたらします。こわいのは、長い潜伏期 をへて発症するがんです。皮膚に、色素の異常や角化症など特徴的な症状があらわれますが、診断の経験をもつ医師がいないと、原因がはっきりするまで長い年 月がかかります。

20世紀になって、砒素による環境汚染が発生しました。砒素を原 料にする農薬や毒ガスが使われるようになり、亜砒酸の大量生産が始まったからです。砒素を含む化石燃料を使いだしたことも原因のひとつでした。1980年 代以降、アジアの大河の流域で、思いもかけなかった大規模砒素汚染が広がってきました。チューブウエル(管井戸)の水を飲んでいる人びとの中から、多数の 砒素中毒患者が見つかったのです。河川によって運ばれて、地下に堆積していた砒素が、地下水にとけだしているのです。地下で眠っていた砒素が、どうして地 下水にとけこむようになったのか、そのメカニズムはまだ解明されてはいません。患者の治療はどうすればよいのか。安全な水をどんな方法で供給するのか。多 くの難問がよこたわっています。