ハツネさん、安らかに

土呂久の佐藤ハツネさんが11月30日に亡くなった。93歳だった。
土呂久訴訟の原告のひとり。被害者の会の「知恵袋」といえる存在だった。明晰な頭脳で被害者の理論的な支柱として活躍した。

1980年代、「女三羽烏」と呼ばれる3人の女性が被害者の会を引っ張った。
被害者の会の会長佐藤トネさん。大柄で男勝り、先頭に立って引っ張っていくタイプだ。
佐藤ミキさんは、踏まれても踏まれてもへこたれない雑草の中で、控えめに咲いている野の花のおもむきがあった。
もう一羽の烏が、トネさんの実姉のハツネさんだった。子どものころ小学校の先生になりたいと思っていた、とよく聞いた。
宮崎県との交渉のとき、行政不服審査のとき、ハツネさんは時をわきまえて理路整然と主張をし、県庁職員を言い負かすことがあった。自分の体験だけでなく、土呂久公害の全体をみわたした話をした。

ハツネさん(左)と土呂久の女衆

土呂久訴訟の和解後、土呂久を語り継ぐことが被害者の会の主要な活動になった。初めて土呂久を訪れる人、海外からやってくる人に、土呂久で何が起きたか、その苦難の歴史を語り伝える。土呂久の「語り部」の適任者だった。
根底にあったのは、土呂久の悲惨を繰り返してはならない、という思いの強さだ。抜群の記憶力にささえられた、穏やかで切々とした話ぶりには説得力があった。

80歳台の後半、その記憶力に陰がさしてきた。自分でも、それがわかったのだろう。だんだんと寡黙になっていった。
90歳を超えてから、足も衰えて、土呂久山荘での集まりに顔をだすこともなくなった。
気になるので、帰る途中に畑中の家を訪ねると、こたつで寝ていることが多かった。にこやかな笑顔を返しても、言葉が返ってくることは少なくなった。

最後に会ったのは11月6日。「土呂久 砒素のミュージアム」の編集者の後藤さん、黒葛原さんを連れて土呂久を訪ねたとき、「ハツネさんが高千穂町病院に入院している。見舞いに行っても、相手が誰だかわからなくなっている」と聞いた。
夕方、宮崎へ帰る途中、高千穂の町をぬけるとき病院に寄った。4階の4人部屋に入ってすぐ左のベッドで、ハツネさんは目を閉じて寝ていた。
のぞきこむと、つむっていた目をひらいた。視線を返すわけでなく、ぼおーっと空を見た。その顔には生気がなかった。
KK-Rakanは自分の名前を言った。ハツネさんの顔がうなずいた。相手がわからないというのは間違いだ、と思った。
ハツネさんは左手をふとんの中からだした。人差し指をたてて天井にむけた。そこには、点滴の袋をさげる金属の棒がさがっていた。
「これ?」。KK-Rakanがその棒を指さすと、そうだというようにうなずいて、また空を見つめた。
何が言いたかったのだろうか? いまだにわからない。

KK-Rakanは右手を差し出した。ハツネさんの右手が布団の中で動いたように感じた。KK-Rakanは、その右手をとりだして、両手でくるみこんだ。ひんやりとした感触が伝わってきた。
「元気になりないよ」
そう声をかけると、ハツネさんの口から声がでた。
「ありがとう」
はっきりと聞き取れた。思ってもみないことに、言葉が返ってきたのだ。
ハツネさんは、それだけ言うと、ふたたび視線を宙に向けて、すぐに目を閉じた。
うれしかった。それ以上、ベッドの横にたたずむ理由もなかった。
「ありがとうと言うのは、ぼくの方だ」
そう思って、頭をさげて部屋を出た。
「ありがとう」の言葉に、ハツネさんと会ってから40年近い歳月が凝縮されていた。
もう、この世で会うことはない。最後の言葉を交わせてよかった。

11月30日の午後、共同通信の記者からの電話で訃報を聞いた。
ハツネさんとの別れを終えて、心の整理はついていた。
通夜は12月2日、葬儀は3日だという。
KK-Rakanは、1日に宮崎から福岡へ高速バスで行き、2日午前11時40分発のタイ航空機でバンコク経由バングラデシュへ向かうことにしている。葬儀に参列するのは無理だ。年が明けて、帰国したあと、土呂久の家にお参りさせてもらおう。

語り部のハツネさん

弔電を打った。
<ハツネさん、93年の人生ご苦労さまでした。被害者の会の知恵袋として、行政や企業を言い負かした数々の名言は忘れられません。最高裁で和解したあとは、土呂久の語り部として、若い人や海外から来た人に被害の体験を語ってくれましたね。「土呂久の悲惨を繰り返さないで」というハツネさんの願いを私たちは引き継いでいきます。ハツネさん、ありがとう。どうか安らかに>

土呂久の星がまたひとつ消えた。

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