小さな村から人類の未来を啓示する壮大な叙事詩

KK-Rakanは、ループアナンの部屋の書棚に、自分の書いた本を置いている。

1980年出版の「口伝 亜砒焼き谷」をとりだして、ページをくった。

「始まりのところを読むからね」と言って、声をあげて日本語の文章を読み始めた。

口伝 亜砒焼き谷

「手を広げてみない。開いた指の先から手首に集まって、それから太い腕へ。そんなぐあいに、古祖母山の山あいから土呂久川へと水は流れてくる。土呂久は、川沿いの縦長の部落じゃ。川が部落を通り抜くる途中、固い岩盤にぶつかって、ほとんど直角に曲ったところがあろう。あの曲り角の右岸は『樋の口』と呼ばれる一帯での。その昔、土呂久鉱山で盛んに銀が掘られたころのこと、坑内水を汲み上ぐる樋の出入口があった。それがこの名の由来、といわれておる。そこに、四十坪を越す広い母屋、そぎ葺の二階付きの土蔵、牛を飼う馬屋が建っておった。部落の者なこの家を、地名と同じ屋号で呼んどった。『樋の口』とな」

モンジュとタンミ母娘、エデンとシナ姉妹、それにJunkoさんがじっと聞いている。

KK-Rakanは、さらに読み進んだ。

「やがて、竹の子が生えようとする季節のことじゃ。

『樋の口』の親家の年保さんが、どこからかフラリと舞い戻ってきて、一緒に連れのうち来た夫婦もんを、迎えに出た弟の勆(つよし)さん夫婦に紹介した。そして、こういうた。

『見ちくり、土呂久でまた、かな山が始まるかい』」

そこまで読んで本を閉じた。聞いていた者から拍手がおきた。

日本語なので、モンジュやエデンらに話の内容は理解できない。

だが、古老が語っている雰囲気は伝わっている。山の村で始まる砒素公害の物語の導入だということは感じ取れたはずだ。

「次はモンジュだ。シャムタ物語の冒頭を朗読してくれないか」と、KK-Rakanはモンジュに頼んだ。

モンジュは1階下の自分の部屋に戻って、プリントアウトした「シャムタ物語」の原稿を持ってきた。

モンジュは、パソコンで8章の終わりまで打って、物語の初稿を完成させている。エデンは第7章の途中まで英訳している。モンジュとエデンとKK-Rakanは、毎週金曜日に集まって、文章に修正を加えて最終原稿に仕上げていく。これまでに第6章まで進んだ。

モンジュは、第1章のはじめのくだりを読みだした。

KK-Rakanは日本語訳を思い出しながら聞いた。

朗読するモンジュ(左)

「ボイシャク(バングラデシュ暦1月)が終わるころ、空にはひとかけらの雲さえ見ることができませんでした。暑さは、まるで雨を待って燃えさかる火のようでした。その乾ききった心を引き裂くように、母親の悲鳴、妻や兄弟や父親そして妹たちののうめき悲しむ声が風に乗って、地上にこだましながら広がっていきました。

それは、私の人生の中で忘れることのできない午後になりました。

私の母は、忙しそうにどこかに向かって歩いていました。幼い私は母について行きました。どうして母がそんなにせかせか歩くのか、私にはわかりませんでした。そのわけを聞くと、母は怒って答えたのです。

『もし遅れたら、幽霊がいなくなってしまうでしょう』

幽霊がいると聞いて、私は恐ろしくなりました。

私たちが着いたところはショーコットの家でした。すでに大きな人のかたまりができていました。村の女性たちが、ショーコットの母親に会いにきていたのです。

私は、道すがら聞いた『幽霊』のことが気になっていました。そっと母に『どこに幽霊がいるの』ときくと、母はショーコットの母親を指さしました。『幽霊じゃないわよ』と、私は怒って言いました。ほんとうの幽霊でなかったことにがっかりしました。

その日、私は母から、シャムタに起こっていたできごとを聞かされました。それは、現実ではない空想の話のように思えました。

では、それは空想だったのでしょうか。私たちは、シャムタの過去へさかのぼってみることにしましょう。

シャムタには、いくつもの果樹園と森がありました。森にはそれぞれ名前がついていて、コビラジュの森、バブルの森、シギルの森、ロバルの森などと呼ばれていました。私の家の近くにはシギルの森があって、名前を知らないたくさんの木が茂っていました。森の中には道があり、その道の両側には多くの花が咲いていました。森には、人食い狐やベンガルタイガーやけだものや幽霊や黒い顔をした大きな猿がすんでいたのです」

シャムタ村は、バングラデシュで激甚な砒素中毒患者が多発している村のひとつである。

その村で起こったことが、こうして語り始められたのだ。

モンジュは、シャムタの森の伝説を語ったあと、ふたたび、母が『幽霊』と呼んだ女性の話に戻ってきた。

その女性は、原因のわからない皮膚の病気にかかり、村人から忌避され、それが原因で夫から離婚された。両親の住む村に戻ったあとも、ときどき、シャムタに残した子どもに会いにやってくるのだ。

その女性が、モンジュの記憶する最初の患者だった。その後、同じような皮膚の病気をもつ村人が相次いで死んでいくのを目撃する。

モンジュは、シャムタの歴史の体験者として、いろいろなエピソードを語っていく。

最初の第1章と第2章で、なつかしい村の風景をバックに起こる悲しい事件が語られる。

第3章で、日本人(アジア砒素ネットワーク)が村にはやっていた病気の調査にやってくる。

調査の結果、手押しポンプ井戸(チューブウエル)に含まれていた砒素が原因だとわかる。村人は「砒素」という毒物のことを聞いたことがない。外国人の言葉を信用しなかった。

青年レザウルが、2か月入院してシャムタに戻ってきた。村人が集まってくる。

レザウル青年の症状がよくなっているのを見て、村人は目を見張る。

日本人の言ったことは「正しかった」と信用するようになる。

ユニオン議員のころのモンジュ

モンジュの皮膚にも軽い砒素中毒の症状がでていた。村に広がる病を克服するために日本人といっしょに活動したいと願う。

熱心なムスリムであるモンジュの父親は、娘が見知らぬ外国人と活動することを禁じた。

レザウルの病気が改善されたのを見て、父は、娘が砒素対策の活動を始めることを認めた。

モンジュは、ユニオンの女性議員の選挙に立候補し、若い人の応援をえて当選する。そのとき、モンジュは25歳だった。

第5章で、モンジュは日本に招待される。

横浜で開かれたフォーラムに出席、土呂久で砒素公害事件の跡を訪問、活火山阿蘇を見学、東京ディズニーランドを楽しむ……。

アジア砒素ネットワークのスタッフになって、シャムタ以外の砒素汚染地を訪ねて、啓発や栄養指導をおこなうようになる。第6章は、3つの砒素汚染村で見聞した話だ。

第7章では、シャムタで亡くなった患者の思い出。

最終章は、そうした中で育つシャムタの若い世代への期待が語られる。

次の世代への期待

モンジュはアジア砒素ネットワークの啓発担当として働くようになる。その話は聞く者をひきつける。砒素汚染の村で砒素中毒の予防法などを伝える際に、シャムタの話をよく例にひく。

それが、1年前に「シャムタ物語」を書くように勧めた理由だった。

モンジュの書いたものを読み始めて、絶妙の語り部であったことに驚いた。

記憶力がよく、聞き手を魅了する話のこつを心得ていて、詩心にあふれている。

KK-Rakanは、日本の友人に第1章から第4章まで送って読んでもらった。

メールで返事がきた。

「『シャムタ村の物語』、なんだかぞくぞくしますね~。小さな国の小さな村から、人類の未来までも啓示する壮大な叙事詩が展開するような気もします。バングラ版『口伝 亜砒焼き谷』かな」

KK-Rakanの意図を汲んだ返事だった。

「口伝 亜砒焼き谷」は、1976年から1980年までガリ刷りで連載し、土呂久の村に配布していた冊子をまとめてできた。土呂久の古老が体験を語るというスタイルをとっている。

「シャムタ物語」は、村で生まれ育ったモンジュが、そこで起きたことを語って聞かせるスタイルだ。

原作者のモンジュ、英訳者のエデン、プロデューサーのKK-Rakanで制作を進めている。

英訳はさらに宮崎在住のブライアンが修正し、アメリカに住むブライアンの母親が手を入れて完成させるつもりだ。

KK-Rakanは4月18日夕方、宮崎のアパートに帰り着いた。次にバングラデシュに出発するのは5月25日である。

この間、「シャムタ物語」の制作を進めたい。

どこにいても、いくつになっても、貧乏暇なしである。

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バングラ新年をパンダバトとイリシュで祝った

4月14日の土曜日、携帯メールが届いた音で目がさめた。時計をみると午前7時だった。

前夜は午後11時に寝たので、睡眠時間は8時間。帰国が迫り、仕事を片付けて安心したのだろう。よく眠った。

ベッドをでて届いたメールを開いてみる。

新しい希望

新しい人生

新しい歌

新しい太陽

新しい光

新しい年

よきことがつづきますように

シュボ・ノボ・ボルショ(あけましておめでとうございます)

ボラ県副知事ハキム氏からの年賀メールだった。

シャワーをあびたところに、下の階に住んでいるモンジュがやってきた。手にした皿に、国魚イリシュの切り身がはいっている。

台所で、フライパンにオイルをいれて、イリシュの料理を始めた。

正月の食卓に欠かせないイリシュ

 

前日の金曜日、モンジュとエデンと「シャムタ物語」の制作を進めた。

その席で「大きいイリシュだと2,500タカ(約2,500円)します」という話がでた。

土曜日の14日がバングラ歴の新年である。この日は伝統的に、イリシュとパンダバト(水かけごはん)とチリと玉ねぎ、それに塩をかけて食べる。イリシュ値上がりの原因は、新年用に買われているからなのだ。

「バングラの正月を祝って、一尾2,500タカのイリシュを食べることにしよう!」

KK-Rakanは、急に肝っ玉が大きくなった。高級イリシュを食べてみたくなったのだ。

制作を中断して、モンジュとエデンがジョソール市街地のボロバザールにイリシュを買いに行った。

30分後、2人が買ってきたのは、ふつうの大きさのイリシュだった。それでも3尾で1,200タカした、と言った。

イリシュをオイルで揚げたあと、モンジュは、前夜から水につけていたごはん(パンダバト)をもってきた。Junkoさんもやってきた。

「扇風機の下においていたから大丈夫です」とモンジュが言った。

「どうして冷蔵庫にいれなかったんだ」とKK-Rakanはとがめた。

バングラデシュ人にしてみれば、伝統の料理を冷蔵庫に入れるなどもってのほかなのだろう。冷やすとおいしくなくなることもあるようだ。

Junkoさんが臭いをかいで、「腐ってはいないですよ」と、安心させるように言った。

九州大学の博士課程で学んでいるシャミム・ウッディンが、シャムタ村でチューブウエルの水や土壌のサンプリングをするために帰国し、ループアナン近くのアパートに滞在している。

新年のパーティにやってきて、料理されたイリシュをみて、こんなふうに言った。

「子どものころ、大漁のときは1キロ10タカで買うことができました。ふつうでも60タカから70タカ、それが今は400タカ、500タカします。新年用はキロ800タカです」

それほど高くなっても、大きなイリシュは味がよいので、店頭に並ぶとすぐに売り切れる。バングラデシュに、金持ち層がふえていることのあかしである。

「シュボ・ノボ・ボルショ(あけましておめでとうございます)」

つづいてエデンとシナの姉妹が正装してやってきた。

家庭でつくる伝統的なお菓子ピタとパイシュをもってきた。

シャミムが買ってきたすいかを半分に切った。

正月の料理がテーブルの上にならんだ。おせち料理の華やかさはない。お屠蘇もない。それでも、こじんまりバングラ新年を迎えるのにふさわしい。

バングラデシュ新年の食卓

 

バングラデシュ人は、パンダバトにチリと塩をまぜて食べる。KK-Rakanはチリの辛さに耐えられないので、塩だけをまぜた。さっぱり感が、脂ののったイリシュにぴったりあう。

シャミムが話したように、イリシュがもともと大衆魚だったとすれば、イリシュとパンダバトが正月料理になった理由もわかる。

カジ&カジ社のブラックティーをいれて、伝統的なピタとパイシャを食べた。

すいかも甘みがあって、本格的なシーズンにはいったことを教えていた。

食事が終わると、パーティが始まった。

最初に、シナと姉のエデンがデュエットした。シナは、クルナ市のラジオ局で歌っているセミプロ歌手だ。のびやかな高い声が美しい。

KK-Rakanは、おはこの「モズが枯れ木で」ではなく「若者たち」をうたった。

 君のゆく道は 果てしなく遠い

 だのになぜ 歯をくいしばり

 君は行くのか そんなにしてまで

藤田敏雄作詞の青春ソングだ。

エデン、シナ、タンミらバングラデシュの若者の心に届けたかった。

Junkoさんが部屋からギターをもってきた。学生時代に好きだった「サヨナラバス」という曲を弾き語りで披露した。淡い恋の歌だった。

Junkoさんのギターを抱くシナ

 

タンミが、新年の正装から空手の胴着に着替えてきた。ここ半月ほど、早朝にJunkoさんとジョソール市内の空手教室に通っている。その成果を披露しようというのだ。

エイ! エイ! エイ! と掛け声をかけて、にぎったこぶしをひねりながら、相手の急所にうちこむ。

白い胴着に白いブルカ。その組み合わせが、イスラム圏に広がる空手を象徴していてほほえましい。

エイッ!

 

エデンが、タゴールの小説「最後の詩」の一部を暗誦した。

5分くらいの長いくだりだ。よく憶えている、と感心した。表情豊かに伝える。

それを聞きながら、KK-Rakanは、ひとつのことを思いついた。

エデンの朗誦が終わった。

「こんどは俺の作品を朗読するから、モンジュ、そのあとで“シャムタ物語”の冒頭を読んでくれないか」と、KK-Rakanはモンジュに言った。

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後ろ髪をひかれる思いで砒素センターを去る

4月12日が、砒素センターのプロジェクト事務所で働く最後の日だった。

午後5時にほとんどの者が帰った。KK-RakanのほかJunkoさん、ラジュ、ジョイヌル、アラミン、マルフが残って仕事をつづけた。

3月31日に2011年度第4四半期が終わった。この四半期の活動と会計報告をJICA(国際協力機構)に提出しなければならない。

KK-Rakanは10日までに活動報告(モニタリングシート)を作成し終えた。それをマルフが英訳する仕事が残っていた。

英文のモニタリングシートは、プロジェクトスタッフのほかJCC(中央政府や地方政府の関係者をまじえてつくる合同調整委員会)メンバーに配布することにしている。

午後7時、英文のモニタリングシートがプリントアウトされて、仕事は終わった。

建物の外に出た。星が美しく輝いていた。ふだん、ジョソールで見ることのないきれいな星空だった。

「毎日のように降る雨がほこりだらけの空を洗ってくれたのだ」とKK-Rakanは思った。

世界的な異常気象はバングラデシュでもみられる。

雹が降ってきた

9日の午後3時ごろのことだった。

にわかに空が曇り、冷たい風が吹きだした。雨になった。ばらばらと激しく窓をうつ音がする。

「シラ! シラ!」

スタッフが叫ぶ。

トゥフィンが外に出て、白いかたまりを手のひらにのせて戻ってきた。

KK-Raka nの手のひらに移す。冷たいので、あやうく落としそうになった。

大きな雹だった。プロジェクト部屋にいたスタッフがのぞきこむ。

「作物が心配だ」と口ぐちに言う。

この時期に、雹が降るのは珍しいことではない。

異常なのは、この1週間、毎日、嵐がきて激しい雨が降っていることだ。

通常だと、5月後半に雨季が始まる。その雨季が1か月半早く始まったみたいである。

「おかげで、地下水の水位があがって、飲料水の心配がなくなりましたよ」

そう言ったのは、エンジニアのジョイヌルだった。

夕闇にたつ砒素センター

仮設のゲートが開いて、ラジュがモーターバイクで帰っていった。

残った者が乗った。砒素センターをあとにしたとき、KK-Rakanの胸に熱いものがこみあげてきた。

「1か月半後に戻ってくるとき、状況よ、改善していてくれ!」

真剣にそう願った。

クリシュノバティ村は平穏を取り戻したかにみえる。しかし、麻薬密売グループの抗争が終ったわけではない。爆弾や銃で殺傷しあう場所が、ジョソール郊外から市の中心地へ移ったという感じだ。

そんな状況の中、スタッフを残して去る。90日間のビザ期間が終わるという理由で、後ろ髪をひかれる思いで帰国する。

車のライトが田んぼで育つ稲を照らした。実がつき始めている。

感傷的な気分を打ち消そうとして、「花の時期が終ったね」とJunkoさんに話しかけた。

「そうですね」

花粉症のJunkoさんを苦しめた稲の花の時期は終わろうとしている。

稲の花

異常気象にくわえて地震の影響もバングラデシュででるところだった。

11日午後9時すぎ、ループアナンの部屋でパソコンにむかっているときに携帯電話が鳴った。

近くのアパートに住むラナからだった。

「今日、地震を感じましたか?」ときく。

「午後2時半ごろに地震があったことは知っている。スタッフの中には地震を感じた者がいたようだが、私は感じなかった。津波警報がでて、海岸部は避難を検討したときいた」

KK-Rakanは、そう答えた。

インドネシアの西の海底でマグニチュード8.6の地震が起きた。バングラデシュは、震源地のほぼ真北にあたる。

津波の危険を知らせてくれたのは、ボラ県で副知事をしているハキム氏だった。11日午後6時半ごろ、携帯電話をかけてきた。

「ツナミ警報がだされたので、いま、緊急会議を開いたところだ」とハキム氏は言った。

午後3時前、ダッカ市民が地震の揺れを感じ、建物からとび出したというニュースは聞いた。しかし、海岸部が津波の危険にさらされていることまで頭はまわらなかった。

もし、バングラデシュがツナミに直撃されると、たいへんな被害がでる。国土の大半が、大河の運んできた土砂でつくられた国である。ずっと奥まで、標高のない平坦地がつづく。

「高いところに逃げた方がよい。だけど、ボラには高いところはないだろうなあ」

ボラ県は、全体が砂でできた島である。高いのは人工の構造物だけだ。

「シェルターがたくさんあるので、そこに避難する」とハキム氏はこたえた。

そして「ジョソールは大丈夫か?」と心配してくれた。

「ジョソールは海から離れているので、津波が襲ってくることはない」

お互いに「幸運を祈る」と言って、電話を切った。

それから1時間くらいあとに、海岸部にだされていた津波警報は解除された。

ツナミを報ずる新聞

ラナの電話の目的は、「次の地震は午後10時ごろ起こるそうです」と、KK-Rakanに警戒を呼びかけることだった。

誰かが流した噂だろうと思ったが、KK-Rakanは「10時になる前にアパートの外に出るよ」とこたえて電話をきった。

近所の人たちが、午後10時に外にでてくるのかどうか、興味はあった。だが、パソコンの仕事が忙しくて、ラナには悪かったが、ずっと部屋にとどまった。

10時をすぎても、地震は起こらなかった。

その代わりに、別のことが起きた。

バーン、バーンと銃を撃つような音が聞こえたのだ。間隔をおいて、またバーンという音がした。しばらくして、またバーン。近くで銃撃戦が始まったのではないか、と思った。

KK-Rakanは、ループアナンの1階下にいるJunkoさんに電話した。

「そんな音は聞こえませんよ。ヒンドゥーのお祭りがあっているので、その爆竹の音ではないですか」

それきり銃撃はやんだ。

空耳だったのだろうか。不安がこうじての幻聴だったのだろうか。

トマトが花をつけた

滞在3か月、その間に、やまとなでしこが開花するうれしいニュースがあった。40鉢に植えたなでしこのほとんどが花をつけた。

シャムタ村のレンジュワラ宅のほか、ダッカのアクタール医師宅、プロジェクトのジコルガチャ事務所、アジア砒素ネットワークのスタッフ宅にも、なでしこの鉢を配った。

数多くの種が、今年の冬がくる前にまかれて、来春、いろんなところで花をつけることだろう。

砒素センターの野菜畑で、日本からもってきたトマトが黄色い花をつけている。

1か月半後、KK-Rakanがジョソールに戻ってくるとき、日本のトマトを食べることができたらうれしい。

楽しみの反面、大きな不安を残して、14日にジョソールを離れる。

ダッカで、プロジェクト関係者に四半期の活動を報告して、18日に宮崎に戻る。

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安全対策に仮設のゲートを設置(5)

クリシュノバティ村は、不気味な静かさの中にあった。

強盗事件の翌日から2日間何ごともなく過ぎた。スタッフは、2台の車に乗り合わせて、午前9時に出勤して午後5時になると引き揚げた。

5日、KK-Rakanに来客があった。ダッカのNGO「ソリダリティーズ(連帯)」でプログラムコーディネーターをしているヌール・アーメッド氏だ。

ヌール氏と会ったのは、2日にJICAバングラデシュ事務所で開かれたJADE(日本下水文化研究会)のセミナーの席だった。

JADEのセミナー

KK-Rakanは、主催者に求められて「日本からバングラデシュへの伝道師―砒素汚染をなくすためにー」というプレゼンテーションをおこなった。

土呂久から出発したアジア砒素ネットワークがどうしてバングラデシュに来て活動を始めることになったのか。

「国はちがっても砒素による症状と苦しみは同じ」

「土呂久の被害者は“私たちと同じ苦しみに直面しているアジアの人たちを助けてあげてください”と言って、AANのメンバーを送り出した。私たちは、土呂久の伝道師だ」

「砒素対策を通して、バングラデシュと日本の友好よ、永遠に!」

そんな話をした。

1971年、小学校の教師が、50年も山奥のむらに埋もれていた砒素公害事件を報告した。日本近代の裏側に隠されていた事実を白日の下にさらしたのだ。

報道などを通して、技術大国日本の明るい面しか知らされてこなかったバングラデシュ人にとって、その日本で前近代的技法がもたらした悲惨なできごとが驚きだったようだ。参加者は身を乗り出してKK-Rakanの話を聞いた。

最後に質疑があった。

砒素汚染地で飲料水対策を進めるときに、どうやって適切な代替水源を判断するのか、フィールドキットにかわる水質検査法はないのか……。

そうした問いにKK-Rakanが答えて、プレゼンテーションの時間は終わった。

質問者がやってきた。

「シャトキラ県のタラ郡で砒素対策のプロジェクトを準備している。もっと聞かせてほしい」

それがヌール・アーメッド氏だった。

同じ日の夕方、たまたまKK-Rakanとヌール氏は、ダッカからジョソールに飛ぶリージェント機に乗り合わせた。

砒素汚染地の視察に行くヌール氏に、「仕事が終わってダッカに帰るとき、砒素センターに寄るように」と声をかけた。

翌3日、砒素センターに強盗事件の被害者らがおしかける騒ぎがあった。4日は平穏にすぎ、5日も何もおこらなかった。午後5時が近づいていたころ、ヌール氏がやってきた。

化学者のカーンがヌール氏をラボラトリーに案内し、エンジニアのジョイヌルが代替水源の選定の仕方について説明した。

午後5時に大半のスタッフは帰宅した。

ヌール氏は、アジア砒素ネットワークの経験や現在の仕事を見聞して、午後6時ごろジョソール空港に向かった。

その後も、KK-Rakanのほかに数人のスタッフが砒素センターに残った。彼らの仕事がなかなか終わらないので、KK-Rakanは玄関から外に出た。敷地に1台のマイクロが駐車している。運転手のナラヤンが立っていた。

KK-Rakanは、ガードマンに仮設のゲートの錠をはずさせて、敷地の外にでた。

夕暮れどきの気持ちのよい時間帯である。

3人の少女が、田んぼのへりの低いブロック塀に腰かけて笑い転げている。

ベナポール道路からひきこんだ農道で、子どもたちがかけまわっている。遠い昔、北九州の工場地帯のはずれの路地で遊んだ思い出がよみがえる。

2つの組に分かれて、相手をつかまえてまわるのは同じだ。日本では、電柱にさわっているとつかまらなかった。ここでは、木にさわっているとつかまらないようだ。

「俺たちの遊びは“チク水雷”と言っていた。“チク”の意味はなんだったのか、あのころは問うたこともなかった。戦争が色濃く残っていた時代だった」

今の日本では、日暮れどきに、子どもたちがグループでかけまわる姿はほとんどみられない。家の中でテレビゲームに興じているのか、塾に行っているのか。バングラデシュでも、都市はそうなってきた。

農村は、まだ伝統を残している。

砒素センターの近くの子どもたち

仮設のゲートの外に立つKK-Rakanのそばに男の子が寄ってきた。

「写真をとってくれ」とせがむ。

「そこに並べ。ハッショ(笑って)!」と声をかけてシャッターを切る。

男の子たちがかけよって、デジカメのモニターをのぞく。

小さな画面の中で、それぞれにポーズをとり、笑顔を見せている。

自分が写されたことに満足して去っていく。

暗くなってきた。帰宅の時間だ。子どもたちが、いくつもの輪になって帰っていく。東の集落に戻る者、北の集落にむかう者。

新聞記事によれば、砒素センターのすぐ近くに麻薬の密売基地になっている集落があり、北の方に、そこにつながる密売グループの集落があるということらしい。

子どもたちの中には、そうした集落に戻っていく子もいるのだろう。

新聞に「テロリスト」と書かれた人物でも、家では子どもたちの父親だ。変わらぬ家族の光景がみられるはずだ。

人は、なにかがきっかけで道を狂わされる。きっかけの有無が人生を左右するとしたら、そのきっかけに出会ったことをいったい誰が裁けるのか。

農道から人影が消えた。砒素センターの電気はまだ灯っている。

ガードマンに門をあけてもらって、敷地にはいる。振り返ると、仮設のゲートの上に月がのぼっていた。

「プンニマ?」と運転手のナラヤンにきく。

ナラヤンの奥さんの名前がプンニマ、満月という意味だ。

「明日でしょう」とナラヤンが答える。

仮設ゲートの上に月がのぼった

ラジュ、ジョイヌル、アラミンらが建物からでてきた。

ラジュとジョイヌルはモーターバイクに乗って門の外へかけだした。

KK-Rakanはアラミンらとマイクロに乗った。プレルハットのバザールをぬける。2日前に砒素センターに押しかけてきた連中が働いているバザールだ。穏やかなバザールのどこかに、あの日、暴徒になりかけた人たちがいる。

日常に溶け込めば、ふつうの人たちなのに、ちょっとしたきっかけで棒を手にして狂暴になる。

ループアナンの部屋に着いて、疲れた体をベッドに投げる。窓の外に、まるい月がのぼっていく。

最近、ジョソールの夜の街で、ひんぱんに爆弾の音がなりひびく。先月は、ジョソール市周辺で15人が殺された、という。

どうしてこんなに治安が悪くなったのだろうか。

今夜もまた、爆弾の音を聞いて寝るのだろうか。

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安全対策に仮設のゲートを設置(4)

エデンが4月4日と5日のローカル新聞から、プレルハットで起きた強盗事件関連の記事を切り抜いて、それを英訳して持ってきた。

事件翌日の「プロバットフェリ紙」には、写真とその説明だけが載った。

殺人容疑で逮捕された2人の写真が新聞に載った

逮捕された容疑者2人の写真の下に、次の説明がある。

「4月3日、2人はクリシュノバティ村で逮捕された。警察は彼らがサイフル・イスラム・ムラドを殺したのではないかと疑っている」

写真の左側の人物が、3日に砒素センターに侵入した男だ。

「このシャツははっきり覚えている。顔は、もっと若かったようだったが……」

KK-Rakanは、写真を見ながら、そんなことを思った。

同じ日の「ロクショマズ紙」の記事は、次のような内容だ。

「昨日の朝、ジョソール・プレルハットでテロリスト(暴力主義者)によって破壊的な事件が起こされた。テロリストは、肉屋を襲って、5万タカ(約5万円)の現金と包丁と肉を奪った。店主らが抵抗すると、テロリストは鋭い包丁で4人に重傷をおわせた。

プレルハット商店街の店主らは、対抗措置としてジョソール・ベナポール道路を約1時間半封鎖して車両の通行を止めた。多数の警察官と緊急機動隊が到着し、店主らに犯人逮捕を約束したので、道路封鎖は解かれた。

警察は、3人をクリシュノバティ村で起きた爆弾事件の容疑者として逮捕し、爆弾を押収した。

クリシュノバティ村の住民がわれわれに語ったところでは、事件の原因は麻薬密売にある。2つのグループの対立によって、コラダンガ、モンドルガティ、クリシュノバティ村で何回も爆弾が破裂している。

コラダンガ村のグループとクリシュノバティ村のグループは、アドッショパラでおこなわれている麻薬密売に関与している。この密売は、アドッショパラの若者に引き継がれている」

この記事から、プレルハット商店街で白昼起きた事件が、物取り目的の強盗ではなく、麻薬密売にからんだ対立抗争の一端だったことがわかる。

気になったのは、砒素センターのあるクリシュノバティ村に麻薬密売グループが存在していること。密売の拠点のように書かれているアドッショパラが、砒素センターのすぐ近くの集落であることだ。

それに「爆弾事件」とはどんな事件だったのか。「プロバットフェリ紙」の写真説明にでてくる「サイフル・イスラム・ムラド」という人物はその事件で殺されたようだが、これらの記事では事件の内容が明らかでない。

5月5日の「ロクショマズ紙」の記事は、村人の不安を誇張して書きながら、警察の怠慢をきびしく批判する内容だ。

「クリシュノバティ村で、銃と爆弾によって起こされた恐怖の戦争と殺人事件のあと、5つの村の住民は、パニックにおそわれている。プレルハットの商店主らは、新たな攻撃がしかけられるのではないかと恐れている。

アワミリーグ政権になったあとも、コラダンガ村のグループとクリシュノバティ村のグループの麻薬密売はつづいている。この2つのグループの対立は支配権争いが原因になっている。彼らは数回にわたり、爆弾事件と暴力事件を繰り返してきた。

警察は2つのグループから毎月金をもらっているので、彼らに対し、何も対抗措置をとっていない。村人は、警察に不満をもっている。警察は、村人の助けをかりてテロリスト4人を逮捕した。テロリストは引きつづき、夜になると武器をもって村にやってくるのに、警察は、他のテロリストを逮捕するなど必要な措置をとっていない。

コラダンガ、クリシュノバティ、トポシダンガ、モンドルガティ村とプレルハットの住民たちは、恐怖の日々を送っている」

記事の英訳を読んで、村人の恐怖のくだりは過剰すぎる表現だと思ったが、警察に対する痛烈な批判には感心した。

日本の新聞は、明確な事実を示すことなしに、「毎月金をもらっている」といった書き方はしない。

こうしたことが書けるのは、ロクショマズ紙がその証拠をにぎっているか、腐敗した警察に反論するだけの力がないか、どちらかだろう。

同じ日の「スポンドン紙」は、プレルハットの肉屋強盗事件の引き金になったサイフル殺人事件について詳しく書いている。

「2日が過ぎたのに、警察はサイフル殺人の容疑者をつかまえることができずにいる。サイフルは、ジョソール県プレルハットで評判のテロリストだった。

警察はある学生を逮捕したが、サイフルの父親は、その学生は犯人ではないと否定した。警察は裁判所に7日間の拘留を請求したが、学生の弁護人は、拘留請求を却下するように求めた。

サイフルの父親は、4月3日、コトアリ郡裁判所に15人から20人の氏名不詳の人物をサイフル殺人の容疑で告発した。

サイフルは、小型トラックの助手をしていた。2日午後7時、クリシュノバティ村の茶屋を出たとき、15人から20人のテロリストに爆弾を投げつけられた。サイフルは重傷を負い、病院に運ばれる途中で死亡した。

周辺にいた人びとは、爆弾事件と犯人らを目撃した。犯人らは、悪名高い麻薬密売人の追随者であるのに、警察は、犯人らを逮捕できずにいる。人びとは、犯人らが数人の有力者の庇護を受けているので、警察は犯人逮捕に取り組もうとしないと非難している。

一方、サイフルが殺されたあと、その人たちは、殺人の防衛のためにプレルハットの肉屋を攻撃した。この犯人らは武器と棍棒をもっていた。彼らは、現金を奪って店を壊した。この被害は、合計約14万9000タカ(約15万円)にのぼる。

この強盗事件の容疑者として、クリシュノバティ村の10人が告発された。警察は、このうち4人を逮捕した」

麻薬密売に原因する抗争を報じる新聞記事

新聞記事によって、砒素センターに棒や竹をもった集団が押しかけてきた理由がわかった。

3月2日夜7時に、クリシュノバティ村で爆弾を投げつけられて、小型トラック助手のサイフル・イスラム・ムラドが殺された。ラボラトリーの化学者カーンが「爆弾の音を聞いた」というのは、この事件のことだ。

その背景に、麻薬密売にからむコラダンガ村のグループとクリシュノバティ村のグループの対立抗争があった。

クリシュノバティ村のグループは、翌3日午前11時ごろ、プレルハットバザールの肉屋を襲撃した。記事からは、これが殺された仲間の復讐なのか、殺した側が復讐を恐れて再攻撃を仕掛けたのか、はっきりとは読み取れない。

日本でいえば、2つの暴力団の抗争が本格化したのだが、関係者が複雑にからんでいて、なぞ解きは簡単ではないようだ。

新聞記事の英訳を読み終えて、「背景がわかったよ」とエデンに伝えた。

「最近、夜になると爆弾が破裂する音をよく聞きます。あれは、このグループの衝突によるものなのですね」とエデンが言った。

対立が先鋭化して、殺人事件や白昼の強盗事件を引き起こし、闇の世界が表にでてきた。

KK-Rakanは、これほど深い闇が潜んでいるとも知らずに、クリシュノバティ村を散歩コースにしてきた。

砒素センターが建っているのが、まさに、暗い世界と明るい世界の境界だったことに気づかされた。

そこは、暗から明への出口なのか、それとも明から暗への入口なのか。

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