KK-Rakanは、ループアナンの部屋の書棚に、自分の書いた本を置いている。
1980年出版の「口伝 亜砒焼き谷」をとりだして、ページをくった。
「始まりのところを読むからね」と言って、声をあげて日本語の文章を読み始めた。

口伝 亜砒焼き谷
「手を広げてみない。開いた指の先から手首に集まって、それから太い腕へ。そんなぐあいに、古祖母山の山あいから土呂久川へと水は流れてくる。土呂久は、川沿いの縦長の部落じゃ。川が部落を通り抜くる途中、固い岩盤にぶつかって、ほとんど直角に曲ったところがあろう。あの曲り角の右岸は『樋の口』と呼ばれる一帯での。その昔、土呂久鉱山で盛んに銀が掘られたころのこと、坑内水を汲み上ぐる樋の出入口があった。それがこの名の由来、といわれておる。そこに、四十坪を越す広い母屋、そぎ葺の二階付きの土蔵、牛を飼う馬屋が建っておった。部落の者なこの家を、地名と同じ屋号で呼んどった。『樋の口』とな」
モンジュとタンミ母娘、エデンとシナ姉妹、それにJunkoさんがじっと聞いている。
KK-Rakanは、さらに読み進んだ。
「やがて、竹の子が生えようとする季節のことじゃ。
『樋の口』の親家の年保さんが、どこからかフラリと舞い戻ってきて、一緒に連れのうち来た夫婦もんを、迎えに出た弟の勆(つよし)さん夫婦に紹介した。そして、こういうた。
『見ちくり、土呂久でまた、かな山が始まるかい』」
そこまで読んで本を閉じた。聞いていた者から拍手がおきた。
日本語なので、モンジュやエデンらに話の内容は理解できない。
だが、古老が語っている雰囲気は伝わっている。山の村で始まる砒素公害の物語の導入だということは感じ取れたはずだ。
「次はモンジュだ。シャムタ物語の冒頭を朗読してくれないか」と、KK-Rakanはモンジュに頼んだ。
モンジュは1階下の自分の部屋に戻って、プリントアウトした「シャムタ物語」の原稿を持ってきた。
モンジュは、パソコンで8章の終わりまで打って、物語の初稿を完成させている。エデンは第7章の途中まで英訳している。モンジュとエデンとKK-Rakanは、毎週金曜日に集まって、文章に修正を加えて最終原稿に仕上げていく。これまでに第6章まで進んだ。
モンジュは、第1章のはじめのくだりを読みだした。
KK-Rakanは日本語訳を思い出しながら聞いた。

朗読するモンジュ(左)
「ボイシャク(バングラデシュ暦1月)が終わるころ、空にはひとかけらの雲さえ見ることができませんでした。暑さは、まるで雨を待って燃えさかる火のようでした。その乾ききった心を引き裂くように、母親の悲鳴、妻や兄弟や父親そして妹たちののうめき悲しむ声が風に乗って、地上にこだましながら広がっていきました。
それは、私の人生の中で忘れることのできない午後になりました。
私の母は、忙しそうにどこかに向かって歩いていました。幼い私は母について行きました。どうして母がそんなにせかせか歩くのか、私にはわかりませんでした。そのわけを聞くと、母は怒って答えたのです。
『もし遅れたら、幽霊がいなくなってしまうでしょう』
幽霊がいると聞いて、私は恐ろしくなりました。
私たちが着いたところはショーコットの家でした。すでに大きな人のかたまりができていました。村の女性たちが、ショーコットの母親に会いにきていたのです。
私は、道すがら聞いた『幽霊』のことが気になっていました。そっと母に『どこに幽霊がいるの』ときくと、母はショーコットの母親を指さしました。『幽霊じゃないわよ』と、私は怒って言いました。ほんとうの幽霊でなかったことにがっかりしました。
その日、私は母から、シャムタに起こっていたできごとを聞かされました。それは、現実ではない空想の話のように思えました。
では、それは空想だったのでしょうか。私たちは、シャムタの過去へさかのぼってみることにしましょう。
シャムタには、いくつもの果樹園と森がありました。森にはそれぞれ名前がついていて、コビラジュの森、バブルの森、シギルの森、ロバルの森などと呼ばれていました。私の家の近くにはシギルの森があって、名前を知らないたくさんの木が茂っていました。森の中には道があり、その道の両側には多くの花が咲いていました。森には、人食い狐やベンガルタイガーやけだものや幽霊や黒い顔をした大きな猿がすんでいたのです」
シャムタ村は、バングラデシュで激甚な砒素中毒患者が多発している村のひとつである。
その村で起こったことが、こうして語り始められたのだ。
モンジュは、シャムタの森の伝説を語ったあと、ふたたび、母が『幽霊』と呼んだ女性の話に戻ってきた。
その女性は、原因のわからない皮膚の病気にかかり、村人から忌避され、それが原因で夫から離婚された。両親の住む村に戻ったあとも、ときどき、シャムタに残した子どもに会いにやってくるのだ。
その女性が、モンジュの記憶する最初の患者だった。その後、同じような皮膚の病気をもつ村人が相次いで死んでいくのを目撃する。
モンジュは、シャムタの歴史の体験者として、いろいろなエピソードを語っていく。
最初の第1章と第2章で、なつかしい村の風景をバックに起こる悲しい事件が語られる。
第3章で、日本人(アジア砒素ネットワーク)が村にはやっていた病気の調査にやってくる。
調査の結果、手押しポンプ井戸(チューブウエル)に含まれていた砒素が原因だとわかる。村人は「砒素」という毒物のことを聞いたことがない。外国人の言葉を信用しなかった。
青年レザウルが、2か月入院してシャムタに戻ってきた。村人が集まってくる。
レザウル青年の症状がよくなっているのを見て、村人は目を見張る。
日本人の言ったことは「正しかった」と信用するようになる。

ユニオン議員のころのモンジュ
モンジュの皮膚にも軽い砒素中毒の症状がでていた。村に広がる病を克服するために日本人といっしょに活動したいと願う。
熱心なムスリムであるモンジュの父親は、娘が見知らぬ外国人と活動することを禁じた。
レザウルの病気が改善されたのを見て、父は、娘が砒素対策の活動を始めることを認めた。
モンジュは、ユニオンの女性議員の選挙に立候補し、若い人の応援をえて当選する。そのとき、モンジュは25歳だった。
第5章で、モンジュは日本に招待される。
横浜で開かれたフォーラムに出席、土呂久で砒素公害事件の跡を訪問、活火山阿蘇を見学、東京ディズニーランドを楽しむ……。
アジア砒素ネットワークのスタッフになって、シャムタ以外の砒素汚染地を訪ねて、啓発や栄養指導をおこなうようになる。第6章は、3つの砒素汚染村で見聞した話だ。
第7章では、シャムタで亡くなった患者の思い出。
最終章は、そうした中で育つシャムタの若い世代への期待が語られる。

次の世代への期待
モンジュはアジア砒素ネットワークの啓発担当として働くようになる。その話は聞く者をひきつける。砒素汚染の村で砒素中毒の予防法などを伝える際に、シャムタの話をよく例にひく。
それが、1年前に「シャムタ物語」を書くように勧めた理由だった。
モンジュの書いたものを読み始めて、絶妙の語り部であったことに驚いた。
記憶力がよく、聞き手を魅了する話のこつを心得ていて、詩心にあふれている。
KK-Rakanは、日本の友人に第1章から第4章まで送って読んでもらった。
メールで返事がきた。
「『シャムタ村の物語』、なんだかぞくぞくしますね~。小さな国の小さな村から、人類の未来までも啓示する壮大な叙事詩が展開するような気もします。バングラ版『口伝 亜砒焼き谷』かな」
KK-Rakanの意図を汲んだ返事だった。
「口伝 亜砒焼き谷」は、1976年から1980年までガリ刷りで連載し、土呂久の村に配布していた冊子をまとめてできた。土呂久の古老が体験を語るというスタイルをとっている。
「シャムタ物語」は、村で生まれ育ったモンジュが、そこで起きたことを語って聞かせるスタイルだ。
原作者のモンジュ、英訳者のエデン、プロデューサーのKK-Rakanで制作を進めている。
英訳はさらに宮崎在住のブライアンが修正し、アメリカに住むブライアンの母親が手を入れて完成させるつもりだ。
KK-Rakanは4月18日夕方、宮崎のアパートに帰り着いた。次にバングラデシュに出発するのは5月25日である。
この間、「シャムタ物語」の制作を進めたい。
どこにいても、いくつになっても、貧乏暇なしである。













